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28 2006

拒否の子

中学から大学にかけて、登校拒否の子というのはまわりに何人かいた。
私には、登校拒否というきもちは全然わからなかった。
ほんとに全然わからなかった。
その構造が心の底からわからなかった。
気の毒かもしれないがしかしそれは弱さであり甘えなのではないか。とだけ思っていた。

今になって、私はその、「全身全霊で拒否する自分を止められない」というできことのしくみについて理解した。全身が拒否している。心と身体が一致団結して、「拒」「否」という信号を私に送っている。

そんなふうに思うのが、一時の気の迷いなのだろうか。

思えば私はずっと学校が好きだったんだと思う。友達がいなかったり理不尽なことがあったりしても、「学校」という概念はいつでも私の相棒だった。学校=好きだったんだと思う。

私が自然な流れで学校=好きだったのと同じように、同じ自然さで学校=嫌いだった子どももいただろう。ひとにはきっと向き不向きがあるのだ。

ストレスストレスというけれど、それは現代社会がそのような概念を私たちに与えてしまったからこそ生まれてしまったものなのか、それとも名前はなくとも普遍的に昔からあったものなのか。
私はこれまで、自分はたとえ友達がいなかったとはいえ、居場所が無かったとはいえ、つらいことや挫折もあったとはいえ、それは「ストレス」というには値しなかったし、じつに自由に生きて恵まれていたし、自分などの生活に「ストレス」があるなんて言ってはおこがましいと思って生きてきた。じっさいストレスなんてなかったんだと思う。
それが、はたして今、今までの中でいちばん日常が充実しているとさえ思うときがある今、かなり確実な「ストレス」を実感しているのは気のせいなのか。ほんとうに気のせいなのか。そしてこれは普通のストレスなのか。がまんしなければいけないストレスなのか。
身体に不調があらわれてもか。
今までコントロールできた不調がコントロールできなくなってきていてもか。それはこのことのせいだけではない、と思ったほうがいいか。まだそう思って続けてみた方がいいか。

そもそも、なぜ自分がこんなことにストレスを感じるのかがわからない。ようするに私が以前思ってきたように、これは弱さであって甘えであったとしてもしかたがない。こんなささいなこと、誰もがあたりまえにやっていることに、なぜストレスを感じるのかわからない。具体的にいうとどの部分が。
そうだけど、今、登校拒否の子のきもちが全然わからなかったのと同じぐらい、それとは逆に、このことを拒否せずにあたりまえにこなせる子のきもちが全然わからないのである。

現時点でのストレスの存在は確実だけど、思い込みが事態を悪化させることも知っている。このことが一時のがまんで見過ごせることなのか、それとも耐えることさえできない不変の事実なのか、それについて、思い込みすぎないようにしながらもうちょっと見てみる。




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Posted by イシワタマリMari Ishiwata | 07:15 | Comment [0] | TrackBack [0] | 未分類

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