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インドの旅の縁の糸

昨日の朝インドから帰ってきました。
そのままお花見に直行しました。桜が満開の週末が、日本の一年でいちばん好きな日だから・・・よかった、ぴったり間に合って。暖かくて・・・すごい日本らしい(東京らしい)日を満喫。
とはいえ、やっぱり、日本に帰ってきて、インドの気持ちがぴゅーんと消えていってしまうのは残念なので、忘れないうちに書いておかなくってはいけない。
インドでの滞在は・・・・
ほんとうにびっくりするくらい、現実がスピリチュアルだった。
私の頭の中で思い描いていたこと/だけど絶対無理だと思っていたこと/かたちにするすべが思いつかずに途方にくれていたこと が、現実に起こっている場所だった。
パフォーマンスとワークショップもとっても感動的な経験になりました。たくさんのことを学んだ。
(パフォーマンスのようすの写真はこちら)
http://new.photos.yahoo.com/album?c=juzpixel&aid=576460762395952679&pid=&wtok=pHO0YeyzHy83N3U3pvkPRQ--&ts=1177396053&.src=ph
ニューデリーについてまずびっくりしたことは・・・大きな木(その木からは三日月のかたちの黄色い葉っぱが散って、芝生の上にもようを作っている)に、鳩と、シマリス(!)と、美しい緑のインコ(!くちばしは赤)がたくさんいる。私たちが木の下で朝ごはんを食べていると、私たちの体や食べ物にはハエがたかり、となりではびっこをひきながら歩く犬がおしっこをし、木の上ではリスや鳥たちがごはんを食べている。みんながそろって生きているっていうことが、すごく当たり前だっていう気持ちになる。
ライブペインティングのパフォーマンスをしたのは、ニューデリーの建築と産業デザインの大学でした。学食(すごい好きだった!)の外にきもちのいい場所があって、木の下のたまり場みたいなところがある。学生さんたちに手伝ってもらって、その木の下に大きな白い布(ニューデリーの市場で買ったもの)をひいて、メガという女の子にも白い布を着せて(ジュヒという女性のお母さんに、民族衣装のサリーのようにして着せてもらった)、そこに絵を描いていった。あの木(鳩とシマリスたちと緑インコたちがいる)、の絵。そのまわりを、学生さんたちが輪になって座って見ている。すぐとなりには大きな道路があって車がザーザー走っており、歩行者たちが立ち止まって柵の向こうからずっと見ている。
パフォーマンスが終わると学生さんたちからの質問タイムになって、まるで授業みたいになってとてもうれしい気持ち。(元来私は学校の授業がすごく好き、先生と生徒の会話が活発であるかぎりは。)みんな次から次へと質問をしてくれて、素直な感想を知らせてくれる。木の下で。私もなるべく素直に答えて、いろいろ会話ができて、すっごく嬉しかった。学校でこんなことしたいよね。したいよ。学生がしらけて黙ってたり先生のことをあざ笑ってたり携帯でメール打ち続けてたりしたら先生悲しいよね。悲しいから現実逃避してつまらない講義を延々しゃべり続けちゃうよね。
ニューデリーの滞在のあと、夜行列車と車で13時間ぐらい(!?)かけてヒマラヤのほうへ。チベットっていう国ってもうないって知ってた?私の無知ぶりはひどいので、中国にチベット自治区があるって聞いたことあったけどそのほかにチベットって国もあると思ってた(考えてみたらそんなはずないよね)。チベットの亡命政府はインドの中にあって、ダライラマもインドにいるのです。知らなかったの。
その、ダライラマの住んでいるダライマサラから1時間くらいのところにあるビルという村に滞在した。チベット人のエリアと、インド人のエリアがある村。もともとはチベット仏教のお坊さんたちの修道院であった建物が、Deer Parkという施設になっている。チベット語やチベット仏教の勉強を教えたり、仏教やアート関係のワークショップをしている施設みたい。ここで私は、ゴミを使ってプレゼントを作るワークショップをやった。5歳〜13歳くらいの子が10人くらい集まったのだけど、(チベットの子どもたちはいなくて、みんなインドの子)全員男の子だったの。私は小学校から女子校で、兄弟や親戚の男の子もいないから、それを聞いたときはちょっと焦ったのですが・・・日本ではついぞ見たことのない、衝撃的なほどにまっすぐな少年たちばかりでした。最初はポカンとしていたんだけど、まず、施設の中にあったゴミを使って、全員で協力して一匹のライオンを作ったあたりから何人かの男の子たちがヒートアップしてきた。それから道にゴミを拾いに行って、(残念なことに、きれいな村の道や川にはゴミの山ができている。これからどうにかしよう。)それを使ってそれぞれの作りたいものを作ってもらったんだけど、すばらしいボートや、車や、家や、爆弾(?)、っていう男の子っぽいものとか、花とか、作ってくれた。最終的に「プレゼント」っていう概念がいまいち伝わらなかったみたいで、あげく、全員作ったものを施設に置いて帰っていったものだから、ジェニファー(施設のひと、台湾出身)と私は、「あの子たちは私たちをがっかりさせないためだけにやっていてくれたのかな・・・」とちょっと悲しく?申し訳なく?思った。(子どもたちはヒンズー語しかわからないので、私たちは実は通訳不足のままワークショップを終えた)だけど、あとで聞いたら、子どもたちはすごく楽しかったって言ってたらしかった。このできごとは子どもたちにとってすごく新しくて刺激的なことだったらしかった。「僕もアーティストになりたい」って言った子もいたんだって。驚くべきことは、ランチの後、頼んでないのに私がいない間に子どもたちが部屋をきれいにかたづけたってことで、さらに私の似顔絵を描いて壁に貼ってあった。ちなみにその似顔絵は全く似ておらず、髪が長く、服装も違う女の人なんですけど、(女の人=髪長なのかな)私だって言ってた。
自主的に部屋を片付けるってどういうことなのかな、ってジェニファーと私はほんとにびっくりしてしまった。日本や台湾では見たことのない子どもたち・・・全く甘やかされていない・・・いつも家の仕事を手伝っているからなのかな。
今日のご飯を食べるのがやっとの人たちにとって、アートほどどうでもいいものはない、のかどうか。私はずっと考えていた。もしそうだとしたら、私はそんな無意味なことをやっていく自分をどう正当化したらいいのかわからなかった。
子どもたちにとって、満足にご飯を食べること、健康を維持すること、そして実質的な根本的な教育を受けること、それがいちばん大切だ。母国語が読み書きできて、さらに英語が読み書きできれば少なくともずいぶん希望が広がる。だけど、持ち物の多さ少なさにかかわらず、みんなが持っているのが、「時間」なの。私がなぜいつも「忙しい忙しい」と言ってしまうのかはわからない、なぜたくさんの人が時間を切り売りして走りながら生きているのかはわからないけれど・・・もし、インドの子どもたちが、自分の持っている時間を変換することで、何かを作り出すことができるっていう遊びを覚えたら?
初等教育の中で、図工や音楽(情操教育、なのかな)は、国語や算数と比べたらどうでもよくて、いちばん「プラスα」な存在なのかもしれない。お金持ちでエリート教育の道を歩む子ほど、ピアノやバイオリンや絵画を習う機会に恵まれるかもしれない。だけど、エリート教育の籠の中で育ったと言える私にとって、「絵を描く」ということ、「何かを作り出せる」という事実が救いだった。貧困の籠の中にいる子どもにとっても、同じ事実が救いにならないだろうか。
貧しくても裕福でも、どんなにたくさんのものが手に入っても、人間は絶対に満たされることがないと思う。幸せは自分の心が決めることだ。危機的な世界に対して私ができることは、こういうことなんじゃないのかな?
インドから帰ってきた日本人がかなりの確率(イシワタ調べ)で口にする有名なフレーズをご存知?
「人生観が変わった」
である。なんで?どういう意味?それっていいの?悪いの?と思っていたけど、そっか、その気持ちもわかるな、って思った。
でも、私の感想は人生観が「変わった」というよりは、人生をほんとうに生きている人たちの世界を見て「安心した」っていう感じがする。
インドにいる間じゅう感じていたことだけど、こういう意味で日本とインドはとっても対照的だと思う。日本に帰ってきて・・・やっぱり少し苦しい。どうして、みんな、単純で表層的な、魂を欠いた会話に終始することができるのかな。どうして、インドでは、もっと生きることの奥深くをシンプルに、クリアに、リアルに、毎日実感できてる感じがしたのかな。
インドで出会った人たちの辞書に、「しらける」という言葉はないみたい。日本人はどうしてこんなにしらけてるのかな。しらけてないとやっていけないこういう感じ、どうしてなのかな、これって悲しい。
私は大学時代宗教社会学を専攻しており、日本の現代社会における新宗教(新興宗教)についてもたびたび勉強する機会に恵まれていました。日本の一部の人たちがインドのスピリチュアリティに傾倒して、結果的に日本社会に戻っていけなくなったり、破壊しようという方向に流れていった経過(有名な地下鉄の事件とか)など、そのリアリティを理解した気がした。
私が感じたことは、↑の日本人たちが感じていたことと似て非なる、だけどよく似た経路で発生したに違いない気持ちだった。
それは、日本をもっとよくしたいということ。世界をもっとよくしたいけど、とくに、自分が生まれ育った国のこの危機的な状況を。
私のまわりには同じ気持ちをもった、上の世代のひとたちもいるから・・・ゆっくりゆっくり、私にできることをしていきたい。
こういうことを言葉(日本語?)にしたとき、たぶんいくつかの人たちが感じるかもしれない「うさんくささ」はいったい何なのだろう?日本語のせいなのか、日本社会の文脈のせいなのかな?日本ではどうして、「宗教=うさんくさい」のかな。私は特定の宗教は持ってなくて、実際に宗教のうさんくさい(不健康な)側面もたくさん感じるけれど、健康的な側面もたくさん感じる。ほとんどぜんぶの宗教が混在してるみたいなインドで、なんか、日本では機能していない当たり前のことがちゃんと存在しているっていう感じがした。
私はインドで、片言の英語で、日本の状態や私が将来やりたいことについてしゃべったけれど、それは、しゃべる相手がこのことをもっと根本的に受け入れているとわかったからだった。私にはかなりはっきりとしたビジョンがあるはずなんだけど、それを言葉にすると自分が非現実的で無知なばかみたいに思えていたんだ。日本語のせいなのか、日本社会の文脈のせいなのかな?日本ではどうして、全部うさんくさく聞こえちゃうのかな。
こういうことを言っていても、インドに行って、日本のことが嫌いになったわけじゃないの。インドと連なった日本のこと、すごく愛しく思えた。誇らしくも思えた。私の母国が日本で、そのルーツのいくつかがインドにあるってことを、嬉しく思った。あと、チベット人の顔は日本人にそっくり。あいさつのしかたや微笑み方のやわらかさも、日本ぽくって懐かしい。西洋人のハグ・キス・ウインク、みたいなカルチャーショックと比べると、すっごく、仲間っぽい。生きていることや死ぬことに対する受け止め方、目の覚めるような思いだけど、それは、未知の別世界を見たというよりは、自分たちの本来の姿を見せられたような気持ち。
インドでは、いくつかのすばらしい出会いもあって、インド人だけでなく、インドに集まった外国人たちもまたそうだった。外から来た人たちのほうがよりいっそう、そうなのかもしれない、私は場所の力を信じている。人々はみんな、何らかの理由でその場所にひかれたり、あるいは何かの縁に導かれて、外からその場所にやってくる。そのひとたちは、その場所が持つ特徴に引っ張られて集まってくるのだ。ニューヨーク、ロンドン、スペインのいくつかの都市、日本なら東京、京都、そして今回のインド(特定の街の性格はまだよくわからないけれど)で、それを思った。
インドでは、吸い込まれそうな魔法の目を持った人にいっぱい出会った。目を見たら、どんな人かだいたいわかる、っていうのはほんとうなの。言葉が不自由でも、このひとには通じている、いない、というのはわかる。その場所にいる人たちの、感じる心の強さや、生きているという実感の強さ、目の力の強さを、こんなふうに感じたのは、インドが初めてだったって思う。
インドでは、ほんとうに、私が頭の中で思い描いていたこと/だけど絶対無理だと思っていたこと/かたちにするすべが思いつかずに途方にくれていたこと が、現実に起こっているっていう印象を受けたの。
また行く!
縁のネットワークと、未来を信じる。
麻
http://homepage2.nifty.com/ishiwatamari/
Posted by イシワタマリMari Ishiwata | 02:03 | Comment [8] | TrackBack [1] | 未分類
まりちゃんのを読んでて、今年は私もやっぱりインドに行こうかな、
と思いました。
類まれな、時間のある生活を送っていることもあり。
そんなまりちゃんには、遠藤周作の『深い河』をお勧めします。
(もう読んでるかな?)
本当は、一連の遠藤世界を知った上で読むのが一番ですが、
インド帰りのまりちゃんなら、そこんとこすっとばしていけるはず。
こんな日本人がいるもんなんだなぁと、少し心が軽くなるはずです。
「日本的」であることの病巣は、私たちが思うよりもずっと深いみたいです。
私は博士でそんなことを考えていけたらなーと計画してます。
Commented by abejun [URL] | 04/03 17:31| edit
abeさん
ありがとう、先日はばったりでした。
そうだよね、スピリチュアリティ研究的には遠藤周作はきっと必須だ。
1冊も読んだことない。
私の問題点は本が読めないところにあります。
しかし「深い河」トライしてみる!!!
ありがとう。
博士の研究が煮詰まってきたおりには是非その豊富な知識を伝授いただきたいものです。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
インド行ってごらん!!
Commented by ishiwata [URL] | 04/03 18:24| edit
素晴らしい日記に私は心が熱くなって
涙しそうになった。
共感することも沢山書いてあったし
心にじんと伝わってくるまりの熱い想いっていうのが
私の心にも響いたんだ。
まりが宗教めいたこと(?)を話すと必ずといっていいほど
「うさんくさいよね」と話の最後に付け足していたけど
それがどうしてなのかわかったし。
私は父の死もあったせいか
お墓を守ることは自分の中でとてもプライオリティが高くて
お経と唱えることや数珠を持つことも
お盆の時期になれば必ず田舎に帰って
ご先祖様を祭るお祭りに参加することも
すごく自分が生きていく中で大切にしている。
でもこのことを東京にいる誰に話せば、親身になって
同じ目線で聞いてくれる?
まりの言う通り「うさんくさい」と私は思われるだけ。
「宗教=うさんくさい」という価値観(?)が多く広がる
この日本・・・というより東京で暮らすには
私も東京のレベルにあわせないといけない。
私がアメリカ南部からNYに引っ越した時もそうだった。
NYで生きる人々の価値観にあわせなければ暮らしていけない…
そうやって、自分を少し押し殺しながらも
その土地に慣れようと
いろんなことをあきらめようとする自分がいやになるときがある。
話がずれてしまってごめんね。
とりあえず、ちゃんとブログを読んだという形跡を残したかっただけです。
では!!!
Commented by naddy [URL] | 04/07 13:35| edit
naddy
うれしいメッセージをありがとうね。
みんなにも見えるところに書いてくれてありがとうね。
naddyはやっぱり経験知をいっぱい持っていて、いろんなことちゃんとわかってるの。でもたくさんの日本人(東京人?つまり誰?)にとっては、「死」はあまりにも遠いね。つまり「生」が遠いね。
そうね、私は「日本が日本が」って言うけど、じつは東京圏で生まれ育って(横浜育ち、いまはだいたい東京生活、なんですけど)、いちどもそれ以外の町で生活したことってないから、ほんとうの日本の姿を知ってるわけじゃないんだよね。旅行で行っただけでも、東京圏とほかの場所はぜんぜん時間の流れ方のリズムがちがうってことがよくわかるし・・・
大学時代にいろんな地域の出身のひとたちに出会ったけど、みんな東京にびっくりしながらそこに自分を合わせていって、いつのまにかすっかり東京っぽくなっていくんだな。
このうすっぺらさが誰のせいだったのか、誰が「東京っぽい」の元祖なのか、ニワトリなのか卵なのか・・・・てな具合に「東京文化」はできていくんだね。
こんなこというとネガティブになりすぎてしまうんですが、東京は大好きでもあるんだ!なんだかんだいって、類が友を呼んでいろんなすてきなひとにめぐり合えるのも東京だしね!
なのでね、なにが言いたいかと言うとだね、
場所は人を形成しますが、いろんなこと我慢しても、自分のほんとうに大事な譲れないポイントだけはっきりさせて「こう思うんです、こうしたいんです」っていうことをそれなりの形で示していたら、それなりに報われる!
私はそう信じている!
なので東京のせいにはしないで、がんばる!
ということなんだ。
naddyはわかってると思う。
だいじょうぶです!
がんばりましょう!みなさまも。
Commented by ishiwata [URL] | 04/08 02:57| edit
なんだか前回のコメントがネガティブで終わってしまっていたことに今気が付いた・・・(苦笑)
実はあのあともいろいろ書きたかったのに、
いそいでて、しかもここメールみたいに保存ができなかったから
とりあえず文章終わらせてしまった、ははは。
私も東京はすごくすき。
いろんな人がいる。
すごくおもしろい。
いろんな人に出会うチャンスも多いし
その分いろんなことを知ることや気が付くこともある。
うん。
まり。
私もがんばる!
今度はみんなの見えないところに
文章おくっちゃうぞ〜
ふっふっふ
Commented by naddy [URL] | 04/10 22:38| edit
ふっふっふ
よかったよかった。
いつになくネガティブなエンディングになっていることが私も気になっていたのだ●
めでたしめでたし、
がんばろうね
Commented by ishiwata [URL] | 04/11 02:49| edit
ishiwata Mariさん
初めまして といっても実は初めましてではなく一度だけ恵比寿のPointでイベントを行なわれていた時にお会いしました。僕はアーティストも含め人に見てもらったり知ってもらいたいことを持つ人をより多くの人に紹介するようなイベントをしており、Pointさんにはイベントの話をしに行きました(結局実現していませんが)。その時たまたまIshiwataさんがイベントをやっていてeMail addressをリストに書き込んだところ、メルマガを頂くようになりました。頂いたメルマガにインドに行ったという話があったので気になったのでこのブログを見てみました。僕も仕事や旅行で世界中色々なところに行くのですが、考え方やものの捕らえ方に非常に僕が常に感じたり考えたりしていることに似ていると点があると思い、コメントを書くことにしました。特に下記の部分に一番共感しました。
今日のご飯を食べるのがやっとの人たちにとって、アートほどどうでもいいものはない、のかどうか。私はずっと考えていた。もしそうだとしたら、私はそんな無意味なことをやっていく自分をどう正当化したらいいのかわからなかった。
僕は今行なっているようなイベントが成長すれば(またはイベントではなくても)、自分が学んできた経験や知識を生かして、人助けをしたいと考えています。僕の親友の一人に、ずっと今日のご飯を食べるのがやっとのような人に対してボランティアを行い、今はアフガニスタンで働いている人がいます。いつか彼と一緒に何か行ないたいと思うものの、彼の話を聞いたり色んな本やTVを見たりしているうちに、そういった人たちの過酷な環境を知るに連れて、本当に必要とされるものは日々のご飯や教育であって、例えばアートや例えばエンターテイメント的なことは必要とされていなのではないかと考えたりしてしまいます。同じような考えを持っている人を知れて良かった。下記も良い言葉だと思います。
持ち物の多さ少なさにかかわらず、みんなが持っているのが、「時間」なの。もし、インドの子どもたちが、自分の持っている時間を変換することで、何かを作り出すことができるっていう遊びを覚えたら?
Commented by Yoshitaka [URL] | 04/18 03:51| edit
Yoshitakaさん
お返事が遅くなってごめんなさい。
コメントありがとうございました。
Yoshitakaさんのように「人助け」をしたいと考えていらっしゃる方を知って私もうれしいです。
私は子どものころキリスト教系の小学校に通っていたので、一時は「シスター」になりたいと思っていたり、漠然と、世の中のためになる人間になりたいと思っていたのです。年齢をかさねるについて、「ほっとけないことをほっとかないと前に進めない」っていうことに気づきはじめてしまって、次第に困っている人を無視できるようになってきてしまいました。今は子どもの頃に戻るような気持ちで、「やっぱり役に立ちたい」と思うのです。でも役に立つことは「助けてあげる」ことじゃなくて、自分を助けるためでもあるような気がして。
世の中はいつもお互いさまなんだと、思っています。そうでなければ、やっぱりちょっとおかしいような気がしています。
「アート」(って何?)も「エンターテインメント」(って何?)も「募金」も「人助け」も、何もかも、それ自体が善であったり悪であったり有意義であったり無意味であると決まったものは何もないと思います。それを通じて何をしたいと望むのか、どっちの方向を向くのか、みたいな、そんなことだと思います。
私は、「アート」とか「人助け」とか、いろんなものの可能性を信じたいと思っているんです。
いっしょにすてきな世界をつくっていけたらいいですね。
ありがとうございました。
麻
Commented by ishiwata [URL] | 04/25 13:51| edit
今日は時間があるので、もう一つ。 最近、見たブログでとても気になる言葉があったの...
Tracked from STAFF BLOG by YOSHITAKA | Ishiwata Mariさんのブログ | 04/28 18:42
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