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31 2007

五月夢のおわり

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私はね

ほんとうは、自分がどんなひとなのかわかっている。自分にとって合う場所も、なりたい自分も、わかっている。

だけど、なぜなんだろう、今まで生きてきてずっと、新しい、似合わない場所に飛び込むことを続けてしまう。

私はね、似合わないってわかっていても飛び込みたい。
そんな場所で「も」やっていける自分になりたい。そんな場所で「も」必要とされる自分になりたい。

私はどんな場所でもやっていける。
最初はけっこう、やっていける。

でもほんとうは、どんな場所でもやっていけない。

いつも三日坊主、三ヶ月坊主、半年坊主くらい。

恋人に今日もまた、「君はよくも悪くも傲慢だよね」と言われた。そのとおり!彼はいちばん、私に的を得たことを言う。
ただの欲張りなんだもん、ほんとうに大切なことは別にあるってわかってる。新しい場所に飛び込むとき、まったく新しい自分になりたいわけじゃなくて、ほんとうは、わかってる。いちばん大切なものが何なのか、わかってる。いつも、欲張りなんだ。いろんな箱を持ちたくて、いろんなお面をかぶりたくて、そういうことができるって、自分の力を過信してる。
だけどほんとは、私は、そんないろんなわらじを履けるほど強くなんかないのです。

なにかを得ることはなにかを失うことだよ。とあのときあの子は言ってたよ。私はいつも知りたいことがたくさんありすぎて、欲張りすぎるんだ。「失うものは何もない」と思ってるんだけど、ほんとうは、失うものが多すぎるのだ。

たぶん、役立たずだと思われたくなかった。強い自分、余裕のある自分、絵を描いてるだけじゃない自分になりたかった。だけどそうやって目をそらせばそらすほど、役立たずすぎる自分に出くわしてしまう。

私はね、ほんとうは何がいちばん大切なのかわかってる。

5月は、いろんなメッセージが聞こえてきた月でした。今どうすればいいのか、やっと、わかった。

ふわふわとしていてつかみどころのなかった夢はおわり。
夢よりも、現実のほうが楽しいし好きなの。
少しずつ、夢から醒めていくみたい。
私はかなりだいじょうぶ。
ほんとに、まわりに恵まれてます。

ひと(まわりの)って、私が思ってるほど弱くないんだな。そして私は、私が思ってるほど強くない。たぶん、みんな強くて弱いんだろうな。なにげないことがひとを救って、なにげないことでひとから救われて、そうやってみんな生きているらしい、どうやら。

自分を追いつめずに、大切なものを大切にすること。
最近「ありがとう」より「ごめんね」ばっかり言ってたな。また、「ありがとう」って気持ちに、戻ってきた。
ありがとう



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Posted by イシワタマリMari Ishiwata | 23:08 | Comment [0] | TrackBack [0] | 未分類

29 2007

おわび

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みなさま

最近私が、よくない日記を書きすぎていたことに気付きました。
心配してくださってみなさま、ありがとう、そしてごめんなさい。

「お酒を飲みすぎてしまった」みたいな記述を不必要にしすぎてしまったのですが、正直、そこまで飲み過ぎてないです。し、回数的にも、「依存具合」的にも、かなり、そこまでじゃないです。大げさに書きすぎてしまった、と思ってください。
お酒に依存してはいないです。ほんとに。

それに、けっこう元気です。

ごめんなさい。


どうぞこれからも、よろしくね。



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Posted by イシワタマリMari Ishiwata | 01:20 | Comment [0] | TrackBack [0] | 未分類

27 2007

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私が人生でいちばん英語を勉強したと思うのは中学三年生の高校受験のときで、そのときローリンヒルのラップを暗記したことによってかなり英語力は助けられたのだけど、(マイケルジャクソン、ビョーク、ローリンヒルは、音楽に疎すぎる私がほぼ唯一「好き」と言っている音楽家。あ、音楽家といったらベートーベンとかドビュッシーも好きだけどそれは置いといて。ローリンヒルのラップは非常に知的レベルが高くって、スラングではないし、ボキャブラリーも豊富で、高校受験英語には最適。加えて彼女が敬虔なキリスト教徒であることもすごくよくて、マザ●ッカーとかヘイヘイヨーとかに終始するのではなくて信じられる歌詞内容なのである。)

さてその当時暗記した歌詞の中に
A friend once said and I found it to be true
that everyday people they lie to God too
so what makes you think that they won't lie to you?
(まちがってるかも)
という箇所があったんだ。

(『神にさえ嘘をつくような人々が、どうしてあなたに嘘をつかないと思うの?』という感じの意味かな?)

最近それってすごく的を得てる、って思うし、なんとなく、そう言ってもらえると救われる。人に嘘をつかれて「裏切られた」と思うのはナンセンスだと思うので。

私って今まで、ほんとうに嘘をつけない人間だった。最近、少しだけつけるようになっています。1週間に換算してもかなり少ない割合でだけど、前よりも嘘がじょうずについている時があります。でも、そうしてみて初めて、これってかなり一般的な活動だということに気づいた。私にとってはかなり新しいことなんだけど、観察してみると、けっこう、みんな、この程度の嘘はついている。嘘ってわかるような嘘である。嘘かほんとかわからないけどまあそういうことにしておいて間違いはない、みたいな嘘である。そんな嘘をつきながら生きるのは魂を売ったも同様、いったい何のためにそんなことを。そんな人生生きてて楽しいのか、と思って生きてきたけど、どうやら人にはそうするべきときというのもあるらしい。正当化してはいけないけれど、嘘をついてみて初めて、嘘をつかれていたことにも気づく。あのときのあのひとには、そうすることが必要だったのだ、ということにも気づく。そして、それを、許せる。

けっきょくのところ、嘘もほんとも入り混じってとにかく人生は物語。だけどLauryn, I cannot lie to God. "God" is in my word, my "spirit" in myself.


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Posted by イシワタマリMari Ishiwata | 15:58 | Comment [0] | TrackBack [0] | 未分類

25 2007

時間のこと

やりたいことが多すぎてとてもじゃないが終わらない。
でもこれは発想の転換の問題だ、と思う。
モモ、私はいつでも誰かに差し出せるだけのたっぷりの時間を持っていたいのだ。




Posted by イシワタマリMari Ishiwata | 13:28 | Comment [0] | TrackBack [0] | 未分類

24 2007

魚のスイミーみたいな黒い子

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私が昔から、差別されるもの/みんなに疎まれるようなものに絶大な興味と親近感をもつのはどうしてだろう。
幼稚園の頃からそうだったし、今でもそう。
それは、社会性を習得する前の子どもが本来持っていた原始的な当たり前のベクトル(どうして、ほかと違うひとはみんなから疎まれるの?)なのかな?
それとも、私がとくに、自分の精神世界の中では(外からはあまりはっきりとは見えにくくても)自分がひとと違い、ひとから差別されているとはっきりと認識していたからなのかな?
いずれにしても、私は自分のこの気持ちが「かわいそう」なひとへの偽善や同情ではないと信じている。差別される者の圧倒的な強さとか傲慢さ、それゆえの魅力とか色気とかに憧れている。し、自分にも魅力があるとすればそういう種類のものである、あってほしい、と思っている。
私のこの気持ちの発端はやっぱり家族の世界にあると思う。私は家族に恵まれた、とってもいい、自慢の家族だけれど、「この家族の中で自分だけがちがう、どうして自分だけ、どうして、どうして」とずっと思ってきたんだから。

いまジプシーの研究の本を読んでいる。私は本を読むのがへただけど、(1行読むごとに頭が別の世界へトリップしてしまうから進まない)本を読むのはとても大切なことだと思います。本ていうものがあってよかったーと思うし、もっと集中して、いろいろな本を読みたいと思います。



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Posted by イシワタマリMari Ishiwata | 09:51 | Comment [0] | TrackBack [0] | 未分類

24 2007

むなしみよこんにちは

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祝!おかえり、私!

ここ3週間くらい、自分を失い続けていたんです。バランスが最悪で、自分でもかなり嫌いな自分になってました。
こないだ1年ぶりくらいに二日酔いですーごく気持ち悪い朝を迎えて、「むなしい!絵に描いたようにむなしい!」と思った日にいろいろふっきれて我に返りました。同じ経験のあるひと、がんばりましょう。(子どものころ「ムナシイ」って言葉がなんとなく流行ってた気がするけど(流行ってなかった?)子どもの頃はぜったい「空しい・虚しい」なんて言葉の意味わかってなかっただろうな。)
バランスをとるのって本当にむずかしいね。ふとした拍子にすぐ足を踏み外すから。自分にとって大切なものが何なのか、どういう自分になりたいのか、そんなことはたとえ理論上はわかっていたとしたって、なかなか淡々とバランスよく生きていくということはできないね。
みなさん!!!私も超超弱い人間ですががんばりますわ。



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Posted by イシワタマリMari Ishiwata | 09:29 | Comment [0] | TrackBack [0] | 未分類

20 2007

子どもの領分

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フランスで出会った、孤児院からもらわれて養子として育てられている女の子。今ごろどうしてるかな。あのかわいい少女のことを、私はよく思い浮かべている。現在の両親に、ものすごくかわいがられているんだけど、ほんとうの両親のことを知らないし、いつも知りたいと願っている。現在の両親は、「ばかなこと言わないで」っていう感じだけど、それはちっともばかなことじゃない。あの子には、あの子の両親にも、私にもわからないことが、わかっている。



私には、いとこがいなかったんです。父にも母にもひとりずつ妹がいて、両方とも結婚してるんですけど、子どもができなかったの。あと、理由はわからないけど、子どもの頃おけいこごとを習っていた先生など、優しくて大好きだった大人たちの多くが、「子どもがいない夫婦」(でも会話の中から、ほんとうは欲しい、ということがわかった)だったんです。だから、私にとって、不妊の問題は子どものころから身近でした。親戚中で、「子ども」は私と妹のふたりだけでした。つまり、私と妹は親戚中から超超かわいがられて育ったのです。
私はよく、「あなたは愛されて育ったのがよくわかる」と言われる。いい意味で言われることも多いけど、これまたときどき言われる、「何の苦労もしたことがないんでしょう」というのもこれと同義語な気がする。たしかに私は、1対10くらいの割合で(1が私、10が大人たち)愛情を注がれて溺愛されて育ったから、ほんとうに、それは覆せない事実なんです。だけど、それがどんなに重かったか、つねに愛情のクサリでつながれて監視されて逃れることができない世界が、どんなに苦しい世界だったかは、うまく説明することができません。私自身はこんなにもひ弱で無力でちっぽけな存在なのに、自分の1.5倍くらいの大きさの金の服を着て、その2倍くらいの金の入れ物に入れられて、自分本来の大きさとは全然違う大きさにされているみたいな感じ・・・言いすぎかな。

昨日、ずっと見たかった映画『誰も知らない』を観ました。柳楽くんのやつです。ショッキングだった。切なくて苦しい、だけど、幸せさというか普通さ(悲惨じゃなさ)を描いている映画。私にとっては、こう言ってはたぶんいけないんだろうけど、少し、うらやましかった。自分たちで生きているという実感。工夫して生きなければ死ぬという状態。自分たちが生きているという事実さえ誰も知らない、誰も気に止めていない、という事実。誰からも望まれてないのに生まれてしまう、誰も知らないし知りたくもないのに生きてしまう、そういう、つらいけれども生のリアルに直面した状態。私には、真逆すぎて、たぶん想像がつかない、一生経験のできない世界。

つくりたい、つくりたくないにかかわらず、いのちができてしまう。(あるいは、できない。)子どものことを思い浮かべてても浮かべてなくても、セックスしちゃうし、セックスすると子どもができるかもしれない(できないかもしれない)。その悲劇的で幸福的な事実が、いのちのリアリティなんだ、て、思う。だって、この世に生きてる動物みんな、そうやって生まれてきているんだもん。そうしないと生まれてこないんだもん。

最近は忘れていたことだけど、昔の私が理解していたように、けっきょく生きることの根源にはセックスがあるっていうことだと思う。それはあるひとつの側面でしかないかもしれないけどほんとうのこと。美しいんだけど醜い、幸福なんだけど悲しい事実として。



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Posted by イシワタマリMari Ishiwata | 17:27 | Comment [1] | TrackBack [0] | 未分類

20 2007

夢の事件現場

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ひとは眠りについて、夢を見て、目が覚めて、眠り、夢見、目覚め、毎日死んで生まれ変わっている。夢に翻弄されないこと、今日は今日で新しい。




http://homepage2.nifty.com/ishiwatamari/200308/2003_planetarium.htm

Posted by イシワタマリMari Ishiwata | 01:42 | Comment [0] | TrackBack [0] | 未分類

14 2007

うつの台風week

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絵を描きながら脳内が魔界へトリップ。戻って来れない。

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「お告げ」みたいな夢で目覚める。だるい。ヒントンちゃんとお茶。自分の魔界逃亡がひとりよがりであったのだと確信する。こうしてひとりよがりな人間になってしまうのはいやだ。ヒントンちゃんは私に説教なんて何もしないけど、私はいつもいろいろ気づく。いつも私の妖精、先生。ありがたい。

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だるかったのはやっぱり風邪だ、前半は寝込む。今日中に絵を仕上げてスペインに送信しなければならないのに。けっきょく時間と闘いながら送る。スカイプの調子が悪い。スカイプの調子の悪さゆえに恋人と破局になってしまいそうなくらい悪い。会話の半分が「え?」「聞こえた?」「今なんて言ったの?」「聞こえない。」「聞こえてた?」「なに?」苛立ち、哀しくて途方に暮れる。パソコンに弱いので、どうしたらいいのかわからない。
これはもしかすると「うつ」という名の状態だ。いろんなことのうまくいかなさに、「もう生きているのがしんどい」、っていう気持ちになる。身動きをとったり、選択肢の中から何かを選ぶという気力がなく、生きている動機がわからない。こんな不安定な精神状態で恋人と遠く離れてスペインに行くことが哀しくなる。
情緒不安定な自分が、醜くて情けない。

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大勢の若者に囲まれて過ごす。大学生たちはとてもいい子たちだ。大勢に囲まれるとやっぱりスイッチが入る。「うつ」は自律神経の問題だ、きっと。不規則な生活、部屋の外に出ない、パジャマのまま、化粧しない、そういうのがいけないんだな、きっと。絵を描くことを仕事にするには、自律神経のコントロールはけっこうなメイントピックのひとつだな。バランスをとらなければならない。「全然元気なんですよ」っていう雰囲気で化粧とかして人前に出ると、それなりにスイッチが入る。気持ちの問題だ。そういうわけで、大勢に囲まれて過ごす。
でも、「やっぱり、じつは今、かなり生きていくだけで精一杯なのです」、という気持ちで、恋人に会いに行く。今はそのことだけが生きる動機、という気持ちになる。「会える!」と思うことでのみ、なんとか身を動かすことができる。ああ、そっか、最近うまくいってないのは恋愛なんだ、きっと。などという気持ちになる、正直「恋愛」のことはしばらく忘れていた。

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(朝)
恋人に会ってなんとか持ちこたえることができたが、依然としてうつである。しかしこれが一時的なものであるということもわかっている、もう少しの辛抱だ、とか思いながらも本当に自分の身体をむりやりに動かす。なるべく動きの少ないルートで移動する、というくらいしか選択の動機がない。
(昼)
事務作業をこなすうちに自律神経がととのってきた。けっきょく、うつを乗り越えるためには頭をつかわないルーチンワークがいいのかもしれない、仕事だ仕事だ、なにも考えずに「やること」をこなすのだ!!
(夜)
好きな仲間たちに囲まれて、けっこういきいきとする。自分の存在価値があるということをようやく思い出してきた、よかった。
最近ひとの相談に乗ることが多い。自分が魔界にトリップしてしまったのはそのせいと思われる。でも最近、相談に乗るの好きなんだ。そういう時期なのかもしれない。

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体調が最悪。起き上がれずに、うなりながら、薬を飲んで、しばらく寝る。自分を奮い立たせて、外に出たほうがいいのかも、と犬の散歩に出るが、犬にひきずられたまま青い顔をして森の中でへたれこむ。父が車で助けに来る。父の愛を感じながら帰宅して吐いて寝る。ごめん、犬。
中学時代の旧友の結婚パーティだけど、行かれないだろうな、悲しい。と思って、寝て、目が覚めると、意外にも、行ける。遅刻しながらも、着替えて、何事もなかったみたいにパーティに行く。

旧友たちの同窓会である。中学時代である。いちばんつらかった時代、でもいちばんラクだったのかもしれない時代。闘いの前夜。なにもかもが不満で、でもなにもかも事足りてた、恵まれた時代。あの頃。自分には友達なんていないって思っていたけど、この世に「ほんとうに」友達がいない世界が存在するなんて、あの頃は知らなかった。そういう、恵まれた時代。

もう、同級生が続々と結婚する年齢になった。

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のんびりする。
体調もよくなって、気分はリフレッシュされたみたい。
うつの台風は過ぎ去ったみたい。
よかった・・・もちこたえた。

10代の頃は・・・ほんとうにいつもこの台風とともにつねに暮らしていたんだ。いつも死にそうにして生きてた。でも死の実感も生の実感も、ほんとうは今よりもずっとぼんやりとしていたと思う。
最近では、ひさしぶりだ。恋人に頼ったのもひさしぶりだ。

今週はなんか、10代を思い出した週だったな。





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Posted by イシワタマリMari Ishiwata | 00:23 | Comment [2] | TrackBack [0] | 未分類

07 2007

毛むくじゃらの魔女とデジャヴ

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ああ、まだ5月7日か!!

と思う。心の中では15日くらいだった。

ああ、まだ23歳か!

と思う。もう24歳になってからだいぶ経っているような気がしていた。

最近この傾向が強い気がする。
子どもの頃から、つねに実年齢より2、3個は上に間違えられることに慣れていた、っていうのがその理由なのか、それとも・・・何かほかの理由があるのか。

最近、ちょっと心配なことがあって、それは、常に「自分に魔力があるような錯覚」に陥っているのである。もしかすると・・・これは・・・世が世なら(というより現代だからこそなお?)みんなから「かわいそうな目」で見られて、精神病院に送られるのでは・・・(もしくは火あぶり)

「魔力」というのは、じつはべつに「魔力」ってこともないのかもしれないけど、知らされていないことでもおぼろげには知っていて、ものごとの本質が見えて、時間軸的には未来のことがおぼろげにわかるような、そういう気がするっていうこと。
なにかが起こると、自分がいつの間にか「やっぱりね」的な反応を起こすのである。でもこれって、デジャヴ(初めて来た場所なのにかつて来たことがあるような感覚に陥ること、既視感ともいう)がただの脳の錯覚のメカニズムであるってことと全く同じで、けっきょくのところ、
「●●はきっと××になるよ」と予言するのではなくて、コトが起こった後に「やっぱり」と思うにすぎないのだ。これって・・・

なんか、かわいそうな子なんだろうか。痛い子・・・・?

最近の私は、つまり、あたかも自分が近々「超能力者デビュー」できるんじゃないか、といったような、そいういう錯覚に陥っているのです。それを、自分で客観的に考えてみると不安になったりもする。不安て言っても、本気で不安なわけじゃなくて、楽しい気持ちだけど。

いろんなことがリンクしすぎているのだろうか・・・・いろんなことが、納得いくのである。何かが起こるとすぐに、それが何にリンクしているのかがわかって、美しいクモの巣がパッと完成する。

というのもあるし、別の側面から言えば、私は今よりもちょっと未来を生きている。

なんて言うと、ちょっと「私って特別なんです」なんて雰囲気だけど、超あたりまえの現代日本人的な私のことを説明すれば、それは、ただ単に現実よりも2,3日前には手帳の「その日やるべきこと」が埋まるから、頭の中でいつも2,3日先を生きているんだ、っていう、ただの現代病なのかもしれないな。

それに、楽しかった日が遠い昔のことかと思いきやつい今朝のできごとだった、っていうことなどは、それに気づいたときに嬉しいし、「ちょっと未来を生きる」ということはその程度のささやかなものなのかもしれないだけかもしれないだけですの。

でも、それはさて置いても自分の魔力を日に日に信じてしまう。そういう私を病気と思うなら病気ということでいいですが、私はさらに、それが「超」能力っていうよりも、「いや、そりゃ、わかるよ。ほんとうはみんな普遍的にたぶんわかるよ」と思うのである。それ自体、前にどっかで誰かが言ってたことだな。「わからない」という状態はただ、やりかたがわからなかっただけで、やりかたがわかれば誰でもわかる。別段、特別な人だけに与えられた能力じゃなくて、きっとわかるのが自然な形なんだよ。人間は退化しすぎてわからなくなっちゃったんだよ、つまり人間以外の動物たちはきっとわかっているのだよ。うちの犬は、飼い犬として生まれ育ったから、鈍ってるほうかもしれないけど、それでも、今までの私よりは、わかってるはずだよ。

とか思うわけ。

それはたとえば、もともとは誰も「セックスのやりかた」なんて教えられたことないのに今まで綿々といのちのチェーンが連なってきたということと同じくらい、「いや、そもそもみんな知ってることなんだよ」ということなの。

それは慣用句で言えば「動物的勘」?とか「本能」?とかいうもの?
なので、「超能力」は「超」どころか「動物的基礎能力」だと思うんだ。

そして私はうれしいことにだんだん動物らしくなってきたのかもしれない!やっったーーーー!前にも書いたことだけど、私の理想は人間以外のけものになること、全身を豊かなふさふさの毛で覆われたけものになることなの。全身の肌が露出した人間って、なんて滑稽な動物なんでしょう?!
なので、どうしても動物の「ファー」が好きで、店頭で「ファー」を見ると、すぐ購入・・・・は、しないんですけど、必ずひとつひとつなでてしまうんです。以前までは安価なもの(古着やさんで見つけたきつねのかたちのファーのマフラーなど)なら購入することも多く、気づけばけもののかばん、けものの定期入れ、けもののマフラー・・・とそろってしまったのだ。もちろん、「それ、かわいく見えるけど、そんなものにされるためにどれだけの動物がむやみに殺されたと思ってるの?」といったことを言われることもあって、しかしそういうことも存じておる。大昔の極寒の北極地帯での生存のためならともかく、たかだかファッションのためにたくさんのいのちを殺して毛皮をはいで身にまとって平気でいる私たち人間がいかに愚かな劣った動物であるか、ということもわかっておる。私は自らの手で「ファー」のファッショナブルグッズをつくるために動物を殺して皮をはぐ、ということはたぶんしないはずなんだけど、それを作って生計をたてている人間がいることも確かで、決してその人間が悪の枢軸などではないということもわかっており、そうこうするうちにすでにいのちを奪われ死体となってしまったその「ファー」がこの人間世界に売られているからには、もうどうせ作られてしまって、最悪の場合だれからも愛されないのかもしれないのならば、私が購入してよしよしなでながらいっしょに暮らしたとしても、鎮魂の意味から言って、悪くはないでしょう?私たち動物はしょせん、毎日いろんなもののいのちをいただいて生きているんだもの・・・そんなにも愚かなんだもの・・・。


とか毎日そういうふうに、話を脱線させながら暮らしているんです、昨今の私は。

  
ふさふさの毛に覆われたいからといって、将来、私が生やしうる限りの全ての毛をボーボーに生やして毛むくじゃらになったならば、きっとのみんな私のことをかわいそうに思うんでしょうね。






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Posted by イシワタマリMari Ishiwata | 22:03 | Comment [0] | TrackBack [0] | 未分類

05 2007

心霊写真についてなど

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<photos by Miyuki Hinton
Mari Ishiwata in "SCHOOL OF SCHOOL" by MSN music & EMI ARTIST, @Unit Daikanyama, April 27 2007>



このゴールデンウィークは、バスク地方(スペイン)の子どもの学校のためのカタログの絵を描いています。
絵の仕事をもらうのはうれしい。
でも息抜きにもやっぱり、絵を描く。



今日、テレビで、ひさかたぶりに、「心霊写真」「キャー」的な番組がやっているのを見た。(最近そういうの、見ないね?90年代の流行物だったのかな??)
私は今までずっと、そういうの大っ嫌いだった。うそでしょーもう、やめて、と、怖かったし、でも信じてなかった。でも、夜眠れなかった。

でも、さっき絵を描いていて、「あー、そういうことなのね!」って急に納得したの。ここのところの私の描く絵というのは、たとえば鳥の群れを描いて、そのうえからクモの巣を描いて、そのうえから人間の顔を描いたうえから動物のシルエットを重ねて描いたり、そういうことをしている。つまるところ、できあがった絵の中では、たとえばコブタのせなかにうっすらと女のひとの顔が残ってたり、そのまた背後になんとなく鳥の群れが見え隠れしていたりするわけ。

心霊写真って、きっとこれと同じことだね!!

私には霊は目に見えないんだけど、たぶん世の中には、昔生きていたひとの魂などがうようよしていたりするんだろう。それとか、今生きてるひとの、前世の魂とかが、ときどきうっすら出てきたりとかするんだろう。昔は、そういう説明聞いてもまったくピンと来なかったし否定してたけど、つまりそういうことなんだろう、そういうことがあってもべつにいいじゃん、ってな気持ちになった。
昔、「霊感のあるひとってかわいそうだなあ、怖いだろうなあ」「でも霊が見えるひとほどべつに怖くないらしいよ」「うそだあ、怖いだろう」って思ってたけど、今ならなんとなくわかる。今だに、見えはしないんだけど、感覚として納得できています。
そういうわけで、世の中は私の絵の中とある部分で似ていて、ときどきそんな誰かの魂が、写真に写りこんでしまったりもするのだろう。
(そう思うと、むしろ、カメラってすごいね?!それか、現像するひと(写真屋さん)の霊感によって出てくるものなんだったりして!)



それから、

「影響を受けた画家は誰ですか?」

というようなことを聞かれるとすぐには答えが出てこないので、さっき考えてみたんだけど、わかったことは、いわゆる画家ではないものからのほうが圧倒的に影響を受けているみたいだなあと思う。次聞かれたときに答えられるように、ここに書いておこうと思います。

私(の絵)が影響を受けたのは、
ディズニー、江国香織、山田詠美、郊外の中流階級の人々(つまりうちの近所、我が家を含む)の庭の花々、動物図鑑(これは忘れてはならない)、MCシスター(何年か前に廃刊になった少女向けのファッション誌)、キリスト教、仏教。古着の色とか模様。あとは、生活の中で実際に出会うひとたちの言ってたこと、など。

でももちろんひとりっきりでそれらの事柄から自分の画風をポコっと生み出したはずはなく、あまたの画家の影響も受けている。

画家の中では、ピカソ、クリムト、エゴン・シーレ、シャガール、岡本太郎、竹久夢二。ひとりの画家ではないけどセツモードセミナーに受け継がれる画風。そして、影響受けてないって言ったらうそになるのが現在活躍中の「ライブペインティング」のスター松岡亮さん。

思い出せないけど、ほんとはもっとたくさんいるでしょう。
子どものころに気づいたときはショックだったのですが、人って、自分の100%オリジナルだと思って作ったものなのにじつはいつかどこかで見たものを無意識に真似している、ということがあるんです。そういう意味で、ときどき「似てますよね?」って言われたことがあって、「たしかに真似してしまったのかもしらん」と思ってしまうことがあるのが否めない、っていうのが、この画家たちです。
子どものころはショックだった、大学1、2年のときまでたぶんショックだった、でも今は「人間ってそんなもんなんですよ、100%ひとりの人間のオリジナルなんてものはこの世に存在しないんです。」って思っています。大切なのは、「あいつのパクッちゃおう〜」っていう醜い心が動機ではないっていうことなんだと思います。自分の力のなさから目をそらして、だれかのもちものを盗むことでごまかそうとしてはだめ。

でもね、こうも思っています、「だれかに盗作されたらどうしよう」とかヒヤヒヤする必要もないんだ、と。だって、ほんとのところ、ひとりの人間のもちものは誰にも盗むことができないんです。表面的に真似ることはできても、ほんとうには盗むことできないんです。だからだいじょうぶなんだと思う。

そんなところかしら、また思い出したら書き足します。


それから、どうして私は子どものころからマイケルジャクソンのことをかっこいいと思ってたのかなあと思ったら、こないだ思い出したんです。ディズニーランドに昔、マイケルがヒーロー役の、すばらしい3D映画があったんです。東京圏で育った方、知ってる方、いらっしゃいますよね?!今では、なんか違うやつ(ネズミが大きくなったり人間が小さくなったりしちゃうやつ)になってしまったんだけど、あの映画、もういっかい見たいな!!どこかで見れるのかなあ?you tubeとか・・・なさそうですよね。小さい妖精が客席のすぐ近くまで飛んできたりして(3Dだからそう見えるのです)、子どもの私はいつも手を伸ばしてつかまえようと必死だったんですよねえ。あのときからきっと私はマイケルジャクソンのファンなんだと思います。





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Posted by イシワタマリMari Ishiwata | 23:52 | Comment [0] | TrackBack [0] | 未分類

05 2007

バター茶と結婚式と新緑

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どんなにコワーイ顔のひとも、どんなに見栄張ってるひとも、いばりんぼも、イケメンも、人をいじめてばっかりいるひとも、メイクばっちりかんぺきなひとも、弱みは見せないってひとも、

家に帰って自分の赤ちゃんの笑顔を見たらデヘーってなってビデオ回しまくってしまったり、青春時代の甘酸っぱい思い出があったり、子どものころのトラウマがあったり、へんなクセがあったり、足が臭かったり、「こんなひとに弱い」という異性の好みのツボがあったり、人には言えない苦労があったり、するんだ。

私が興味あるのはそういうことなんだ。生きてるひとの、物語。かっこよくもなんともない、ほんとうの部分。

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それはそうと、私は昨日今日で存分にゴールデンウィークを満喫したわけよ。1泊2日東京横浜観光だったわけよ。

カテドラルでの厳かな結婚式(大学時代の友人カップルの。)、
創業40年の超かわいいおばあちゃん姉妹のアメリカンパイ屋さん、
護国寺でのチベット砂曼荼羅を見学(カトリックから一転、チベット仏教へ。)、
チベットのバター茶(だいぶまずかった)、
東京モノレール、
流通センターの団地倉庫ぞいの川辺、
歩き回る、バス、電車、タクシー、
美術館での披露宴ガーデンパーティ(挙式と披露宴の間が時間が空きまくっていたというわけなの。)、
立ち飲み焼き鳥屋(大学時代の友人の働き納めを拝みに。)
翌朝、帰宅するもカギを持っていないことに気づき、家族が帰ってくるまで泣きながら待機。4時間ほど、なにもない地元で時間をつぶさなければならない。
近所のおそば屋さん(近すぎて一度も入ったことがなかった。けっこうおいしかった)、
公園の新緑の中のベンチで横になって眠る、
ふと、「おや?私が今日やる予定だった仕事は紙とペンさえあればできるぞ?」と気づき、ベンチで仕事、
そしてようやく妹が開錠。

以上、このすべての行程、私はドレスアップ&ハイヒールですよ。どうです?
とくに、公園のベンチで横になって眠る、とかどうです?予想外の展開だったよ。てっきり、非日常観光は昨日で終わると思ってたよ。
まったくですよ。

まあ、とにかくね。
今日のひとりハプニングはさておき、昨日はほんとにいい日だった。すばらしいお天気、新緑も美しいし、幸せ噛み締めたし涙ちょちょぎれた。何より自分自身が幸せだった。新郎とは高校時代からの友人だったんだけど、思い返すとけっこう長いこと彼の人生を見てきた気がして(横目で。)、そして新婦と出会ってからの彼の明るい変化などを思うと、ほんとうにこの日がうれしかった。キラキラの、強い決心。
こういうことがあるから、生きてるって楽しいよなあ、とか思う。たまんない。自分の人生に、ひとの人生が交錯しているっていう幸せがたまんない。いやーほんとに、おめでたいねえ。





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02 2007

ロンの家の物語

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イシワタ語でロンのおじいちゃま・ロンのおばあちゃま、というのは、両方の祖父母のうちロン(犬)がいるほう、という意味の幼児語。(ちなみに対語は「みっこちゃんのおじいちゃま・おばあちゃま」「みっこちゃん」は叔母。)

ちなみにロンは15年近く前に不慮の迷子でいなくなってしまったんだけど、いまだに「ロンのうち」という呼び名は健在なのである。

ちなみに、「ロン」とかいうとかわいいけど、ヤス(ヤスオ)という名前の祖父が、「ロンとヤス」(昔の日米仲良し首脳コンビ、レーガン大統領と中曽根総理)にちなんで名づけたのであって、つまるところ米国を犬よばわりして優越感にひたる、というブラックユーモアたっぷりのネーミングだったわけ。

そういうわけで、そんなロンのおじいちゃまとロンのおばあちゃまの家に、最近、よく通うようにしている。なんか、そういうことにしている。私のことを溺愛しつづけてくれたこのひとたちの元を離れて、外国に住むんだと思うと、日本にいる間に、そうせずにはいられないと思った。そう思うに至ったのには、それなりのきっかけがあった。頑固で不器用で愛しにくい困り者の老夫婦として息子夫婦や孫たちを遠ざけ気味だったこのひとたちは、私の「絵の道で生きていきたいのです」的な告白に際して、思いも寄らない温かい言葉をかけて受け入れてくれたのである。「絵の道」なんてこと、私はずっと言い出せなかったし、祖父母にとってそれはどんなにか受け入れがたい告白だっただろうか、と思う。
なんか、それをついに告白した私にも、それをついに受け入れた祖父母にも、急に「乗り越えた」感が溢れ返った。

いや、でも、もしかしたら、それは、ひとえに私が私自身が乗り越えただけなのかもしれないけれど。今まで決して家族と向き合うことができなかった私が、ついに生まれ変わった、だけなのかもしれないけど。生まれ変わった私の目には、今までずっと当たり前にあったはずのものが、やっと見えるようになってきたっていう、そういうことなのかもしれないけど。

見えるようになったものは、家族の愛情であった。それから、それぞれの物語であった。完璧でない、完璧であるはずのないそれぞれの、弱さや強さ、くだらなさや立派さ。それぞれが人間として生きてきた軌跡の物語であった。

ロンの祖父母は、一時は心身ともに弱っていったんだけど、最近、なんかどんどん生き生きとしてきてる。ふたりで助け合って、前向きに暮らしてる。言うことは「もういつ死んでもおかしくない」とか「ふたりで何とか生きてるのよ」とかなんだけど、なんか一時期とは比べ物にならないくらい、カラっとしていて前向きなのである。にこにこしているし、しゃべりかたが全然違うのである。前は、同じようなことを言っていてもニュアンスがかなりちがった。「生きていてもなんにも楽しくない」みたいな、親族一同が不安になるようなことを祖母が言ったかと思えば、祖父が声を荒げて人の悪口を言ったりなんかして、わりと愛しにくい老夫婦だったのだ、つい最近までは。

そういう祖父母が劇的に丸くなった。これまでほぼ不仲に見えていたふたりが、肩を寄せ合って助け合って生きるようになった。祖父は自分と妻の老いをようやく認め、そして妻への感謝と愛情を噛みしめ始めたみたいだった。今まで、祖父は傍若無人で思いやりがなく、「どうにかして生きたい、自分だけが生き残りたい」みたいな、非常にガツガツとした老人であって、私たちはたびたび閉口していたのである。それはそれで、そのバイタリティーのおかげで、倒れて入院してもすっかりさっさと元気になってくれたりして、よかったんだけどさ。今はほんとに別人のように、祖母の夫として祖母を支えていっしょに暮らしたいというやわらかな願いが見えるようになった。顔が全然違うのだ。

ロンのうちに行くと、毎回、新しい感動が待っている。ふたりの老人の、知らなかった物語も蔵から出されてきて。老いるってすてきなことなのかもしれない、と最近思う。

だけど、ほんとうは、私が見ていなかっただけで、昔から、祖父は夫として祖父なりに祖母のことを考えて生きてきたのだ。ふたりにはふたりの物語があった。私が見ていなかっただけなのだ。

そういうわけで、今までと比べれば劇的に頻繁に、ロンの祖父母の家を訪問している。それは祖父母のためでもあるけど、自分のためでもある。今までは「忙しいから」という理由で全然立ち寄ることのなかったこの家が、案外自宅からかなり近いこととかにも気づく。こういうことのために仕事辞めたんだよ、とも思う。

そうです、最近の生活のよいところは、ひとつひとつの動作にゆっくり時間をかけて生活できるようになったこと。いまだに走りながら生きてるけど、でも、よく休んだり、ちゃんと遠回りしたりしている。そうそう、自転車操業っていうんだ、こういうの。いつも楽しいし、生まれて初めて、生きてるって感じがする。この充実感・・・死ぬんだろうか。でも、死んでもいいかも、とも思う。いや、生きたいけど。でも今までの気分とは違うんだ。今までは、出口が見えないのに走り続けて、出口が見えないまま突然に終わってしまうことが無償にこわかった。今はあんまりこわくないような気がする、だって楽しいからね。でもやっぱり、死ぬとなったらこわいと思うけど。

ロンのうちで過ごす時間が、自分の生活にとってかけがえのないものになるとは、ちょっと前の私には想像もつかないことだった。ロンのうちに行かなきゃいけないときは、いつも時間をもてあましていたし、同じ話(しかも自慢話)ばかりする祖父母のことが嫌いだったし。
今は大好きなのだ。楽しい。

最近の私は何回も言うけどほんとうに楽しい。
それは、ひとの物語を味わえる余裕が生まれたからなんだ。






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Posted by イシワタマリMari Ishiwata | 01:05 | Comment [0] | TrackBack [0] | 未分類

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