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05 2007

マリの魔女とアヤの森

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ひとはけっきょく文化から完全に自由になることはないらしい。ルールによって行動を規制されているのはどうやら日本だけではないようだ。たとえば陽気で勝手でのんびりくつろいでいるように見えるスペインも、いってみればどうやら「陽気で勝手でのんびりくつろいでいるよう」にふるまうように規制されているようである。週末は仕事のことを忘れ、家族や恋人や友達のために使うのが義務のようである。いずれんしても、ひとに対する協調性や思いやりやホスピタリティ、さらには自分に自身に対する思いやりやホスピタリティが、義務付けられているみたいである。そしてけっきょくのところ、そのルールによっって結果、気持ちがすごくラク!っていうことにかわりはない。

そうはいっても日本とかスペインとかはちょっとしためやすにすぎず、けっきょくのところ、人による。ラク、というのはつまり、怠けていられる、という意味ではなくて、大切なことがなんなのかがクリアだ、ということなのである。それはスペインのせいでもあるし、私が言葉がほとんどわからないせいでもある。

私とバネッサがあらゆる点でどれほど似ているかは特筆に値する。
そもそも、子どものころのバネッサの似顔絵が、私のこの絵(子どものころの私の似顔絵)

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にそっくりなのである。梱包から解かれたこの絵を見て、バネッサは「わ!」と言って自分の似顔絵の前に連れて行ってくれた。

ところでこれまで「スペイン」「スペイン」と言ってきましたがじつのところ私が拠点としている場所はほとんどスペインではありません。「バスク」というちょっと特別な地域。スペインからずいぶん独立した自治体を持っており、独立したさのあまりの過激派テロリスト集団で有名です。がその印象とは裏腹に、かなりのレベルで安全をきわめた感じの素敵な場所で、テロといっても死者の出るようなテロは皆無に等しいので安心してください。とはいえけっきょくのところ、生きとし生けるものにとって死の可能性がつねに存在することは当然の事実だと思っています。
最近のニュースとしては、バスク古来の文化で「マリ」というのは魔女(精霊)のことで、8月にはビルバオで「マリ祭」(たぶん訳すと“祭”)があるらしい。私が子どもの頃どれほど魔女になろうとしていたかを思うと、自分がはるばるバスクにやってきたのもうなずける。ちなみに私の子どもの頃の人格の根底を形成しているのはキリスト教のカトリック文化でありますが、日本にカトリックを伝えた聖フランシスコ・ザビエルもまたバスク人なのである。
ちなみに私の妹の名前は「イシワタアヤ」ですが、今日ボートに乗りに行った場所の近くに「アヤ」という大きな森があるようでした。
そんなこんなで先日バスの待ち時間にCDショップで視聴して気に入ったバスクポップのCDがあったので購入したところ、その歌手は知ってるひとのいとこでした。
そんなこんなでどんだけ小さいんだバスク、あるいはどんだけ縁の糸でこんがらがってるんだ私、といった感じで1週間がすぎていきます。

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Finally I MIGHT be a typical Japanese who doesn't know what to do on holy holiday. The biggest different between here and my country is, and the biggest thing that I could be learn is, here people open a window to put the fresh air into their mind. My mind is all the time running running, working working. Same as tylical Japanese salleryman, same as my father. Even if I am working about what I'm falling in love with, still I need to reflesh my mind with noticing what is FINALLY the most important in my life.At least on holy holiday.
I'll learn about this slowly slowly, in this place.
Holiday is a holy day. What is the most important in my life? Why did I choose to stay here, without seeing my precious people for a long time? On every holiday, I will think of where to put my spirit. I miss you guys, a lot. But sometimes “missing you” can be more important than staying near from you.




Posted by イシワタマリMari Ishiwata | 23:34 | Comment [0] | TrackBack [0] | 未分類

29 2007

ハッピバースデ

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え?!とっくにスペインにいるんだと思ってました!!

でおなじみのイシワタマリです。
いまだ日本にいるわけです。ついに24歳の誕生日をむかえてしまいました。

ごぶさたしてます。ビザがまだ降りてないわけよ。なかば情けないですが、ほんとうはべつに情けない気持ちでもないです。東京での生活も意外に毎日ドラマチックだし、そもそもまだ出発の準備ととのってないからね!

史上最大のモラトリアムに私がおこなったプロジェクトをいくつか紹介しますね。



1***

車ペインティングワークショッププロジェクト

鹿児島の知的障害者支援施設「しょうぶ学園」のボランティアと、そこの造詣教室のみなさんといっしょに送迎ワゴン車にペインティングをしました。
(いまサイトをつくってるところなので、できあがったら写真を紹介します。)

2***

巡礼の旅プロジェクト

日本地図のめちゃめちゃはじっこに、対馬ていう島があるのを知ってますか?そこに行ってきました。秘境です!神話の世界です。

行くつもりじゃなかったんだけど、完全になにかに導かれていることに気づき、予定を変更して長崎市にも行ってきました。自分の人格の根本的なぶぶんをかなり形成したのがキリスト教カトリックの精神だということを痛感して感無量。洗礼を受けてしまおうかと思ったほどでした。15年くらいぶりに神の存在を100%信じました。神と対話しました。
キリスト教ってけっきょくうさんくさい、って最近思ってたんだけど、今の私には教会に書いてあったいろんな言葉が胸にしみました。

そしてルドビコ茨木との感動の対面!

あのルドビコさまですよ、12歳で耳をそがれて縛られて、の衝撃の聖歌でおなじみの。(聖歌ですよ、小学校で歌わされる聖歌です。)かなりマニアックな話ですが興味のある方はこれを見てみてね。↓

http://kanamo.jugem.cc/?eid=23

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AD%E8%81%96%E4%BA%BA

私はとある理由から中学時代にルドビコ(通称ドビ)と呼ばれていたので他人事ではないのです。とある理由というのはちなみに、当時部分的にアトピーで耳たぶが切れてて、スリットが入っていたからです。耳切れルドビコか耳なしホウイチかっていう二者択一の呼び名。超ブラックなキリスト教ジョーク、どうよこれ、YF学園。


3***

高校の頃ものすごく好きだったひとに再会するプロジェクト

これはすごいです。
奇跡。思いもよらない展開に、生きていることがうれしくなる。
もうしばらく会うことがなくても、単純に、生きててよかったと思ったし、あの頃の私のひとつの側面をいちばんよく知っていた人に会えたことで、見失っていた自分のルーツに出会えた。それは長崎でのキリスト教との再会も同じことだったけどね。

あのころは世界がとてもとてもシンプルだった。私たちは子どもだったし、大人たちがつくった小説や音楽を聞いて、大人たちがつくった言葉を借りてしゃべっていた。驚愕するくらい、あのころにはもうもどれないんだけど、それはけっこう悪くない。今だってまだまだ若いし子どものとちゅうなんだけど、これからどんどんきっと、私たちはもっと自分の言葉でしゃべれるようになるんだから。そしたらまた世界がシンプルになってくるような気もするし。



**********


さいきんね

「つらい」とか「苦しい」とか「もうだめだ」と思った瞬間以降の人生がわりと長いなと思うの。いつも真剣だし、真剣にだめだって気がしてしまってるんだけど、あとになってみれば意外とだめじゃなかったんだ、と思う。しかも、時間差の大どんでん返しが意外と存在する。衝撃以降が長い長い。展開が多い多い。こんなにいろいろあったのにまだ24歳だし、もちろん明日ふいに死ぬかもしれないけど、とりあえず、死ぬまでは生きられる。生きてると想像もできなかった展開がたくさんある。こりゃ死んでられないなーと思う。

そんなかんじで24歳、今日を楽しみまーす


みなさん、ありがとう。





Posted by イシワタマリMari Ishiwata | 14:45 | Comment [2] | TrackBack [0] | 未分類

26 2007

しおかぜとおもいで

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だいすきなairdropのカフェライブひさしぶりに。
江ノ島はあまり好きとも言いにくい街(街だ)だけど海の見える場所でairdropを聞きながらすごす時間はとても特別。
ひさしぶりのセツ(セツモードセミナー。5〜6年前私が夜間通っていた絵の教室)の仲間たちにも再会する。

5年前の夏にセツ仲間たちと初めてグループ展をやったときにairdropが会場で歌ってくれたのが出会いだった。あのとき涙が出た。それからときどきairdropのカフェライブに行くようになって
東京にも好きな場所ができたし好きな時間のすごしかたができたと思った。18歳のとき。ほかのみんなは20代まんなかくらいだったから、私はいつも若かった。

そもそもピアノを弾いてる荒木さんがミキちゃんの中学の同級生だったんだし、あの展覧会をきっかけにエミオちゃんがairdropのCDジャケットの絵を描くようになって、ボーカルのカノコちゃんのネコが産んだコネコをエミオちゃんがひきとって、その名前はミミだった。airdropにはミミの歌もある。そのうち私たちはグループ展をやらなくなって、みんなそれぞれの道に進んでいった。私もひとりで展覧会やパフォーマンスをするようになった。個展のDMデザインを手伝ってもらうためにエミオちゃんとしんちゃんの家におじゃましたりしてた。
最初はネコだったんだけど、あるときからはネコの代わりにエミオちゃんの赤ちゃんになった。

エミオに赤ちゃんができて、ふたりが結婚して、

2年前の海のairdropライブのときはエミオちゃんのおなかが大きかったのに、今年のライブにはもうすぐ2歳になるはなちゃんが一緒に来ている。

ライブハウスでなくカフェでライブをやることにこだわりつづけてきたairdropの、その地道な活動にどんどんファンは増えて、5年もたつと、ゆっくりとでも着実に前に進んでいて、その活動はもう地道で小規模とはいえないものになっている。

でも変わらないものは変わらなくて、ほっとする。
その変わらなさはタイムスリップしてしまうみたいな頑固さじゃなくて、カノコちゃんと荒木さんも今を生きてて変化している。私たちが変化しているのといっしょに。だけど大事なことだけが変わらない。変わりつづけながら、でも変わらない。

5年間もの間に、私にもいろいろあったしいろいろ変わった。

その「いろいろ」にいつも、airdropが寄り添っていてくれるような気がする。昨日は泣かないわけにはいかなかった。いろんな思い出がつまりすぎているもんね。airdropにも、この場所にもね。

http://www.barks.jp/artist/?id=1000000902





まだ小さいはなちゃんが一緒だし早めにカフェを離れて、江ノ電で帰る。ひとりで浜辺で過ごしたかったから、由比ガ浜で降りる。

江ノ電にもたくさんの思い出がある。中学校のとき同級生6人組で江ノ電の線路を歩いたな。大人になってからも、あのときも来たしあのときも来た。
私が友達がいなかったというのはうそで、思い返すと誰かたちとの楽しい思い出はそれなりにたくさんある。

でも今は海辺にひとりになりたい。
夜の浜辺、ところどころに花火のグループが見えるけど、私はほぼひとりで月と海と砂浜に対面している。とても、ひとりだ。

吉本ばななの小説にこんなひとが出てくるシーンがあったな。誰かが見たらぎょっとするんだろう。だから誰かをぎょっとはさせないように気をつけて、でもあんまりひとはいないから、海とひとつになりたくて海に入る。水着は持ってないけど、それなりになんとか帰れるだろう。

昼間のビーチ(とくに江ノ島)はおかしい。海でさえ街で、社会だ。変だよ、悲しい。そういうんじゃなくて、

海とひとつになって、空とひとつになって、砂浜とひとつになったら、黒い闇につつまれながら、ふしぎに満ち足りた気持ちになる。海に吸い込まれてこのまま誰にも知られずに、自分が波にさらわれて消えてしまうような錯覚に陥る。せつなくて泣けてくるけど、でも悪くはない気持ち。

なんとかなるでしょ、それなりに。
また一日一日を生きようと思う。



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Posted by イシワタマリMari Ishiwata | 11:30 | Comment [2] | TrackBack [0] | 未分類

01 2007

生活

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子どものときにいつもとても不思議だったのは、世界には学校に行きたくても行けなくて、家族といっしょに暮らしたくても暮らせない「かわいそうなこどもたち」がいるというのに、家族といっしょに暮らし学校に通う「恵まれた私」がちっとも幸せな気持ちじゃないってことだった。
誰かにとってどんなに望んでも得られないものを、私がこの手に持っているという事実を知っても、そのこと自体に感謝することはできなかった。

私たちには選択肢がありすぎるね。物もありすぎるね。
ひとは決して満たされることがないね。

だけど、私は生きているし、あなたも生きているね。今、ここにね。
私たちはきっと生きてるっていうそのことを感じていたいだけなんだ、なにはなくともそれでいいでしょう?

「あなたが私が今なぜここにいるのか?」はっきりとした理由はわからなくても、それがたとえいい気持ちだとしてもいやな気持ちだとしても、なぜか今ここにいるってこと。ありすぎる選択肢の中からそれを選んでいるっていうこと。

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「三田の家のイシワタマリ展」が終わりました。
足を運んでくださったみなさま、ほんとうにありがとうございました。

展覧会にわざわざ足を運んでくれるひとたちが、足を運ぶという選択をすることや、予定よりちょっと長居してみようかという選択をすることそのものに私は興味がある。なぜかここに来ることにした理由が、たとえば自分にとって身近な大切なひとがいつも話して聞かせるイシワタマリ(あるいは三田の家)だからだったり、自分が人生のうえで大切にしている某かにリンクする某かをイシワタマリ(あるいは三田の家)の中に見たからだったりする。
それはつまり言い方を変えれば、必ずしも「心ひかれる」なんて大げさな美しい現象とは限らなくって、自分にとってのなんらかの義理や義務感やメリットのための「やむをえず」の選択であったりもして。そしてその結果はといえば、いい気持ちのひともいるかもしれないけど悪い気持ちのひともいる。

とにもかくにも、そういうふうに、訪れるすべてのひとの人生が、生活がそこに見える。鑑賞者は見えざる匿名の誰かではなくて、私のほうからも見ている。生きてるひと。

人生のうちのある時間をそのことに使おうという選択。ほんとうはこの世のどんなできごとも、その選択どうしの奇跡的な縁によって成り立っているはずなのに、普段はなかなかそういう実感ができない。

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私にとって、今回の展覧会は、「三田の家」という場所の私なりの解釈をかたちにしたものでした。それは必ずしも全員に伝わってはいないと思うけれど、何人かのひとには確かに伝わった。

「人生の中の1週間をここでこうしている」ということがそのまま、私の生き方の選択に思え、その選択を幸せに思えた。
あのひとたちが作ったベランダにこのひとたちといっしょに座っていると、部屋の中には私の絵が見えて、となりのおばさんがくれた桃をあの子がむいてくれて、すると玄関から誰かの声がする。

自分が生きていてみんなが生きている、みんなの顔、みんなの生活、みんなの人生が今ここに見えている。

何はなくともそれがいい。

私の人生の中のいちぶの時間を共有してくれてありがとうございました。





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Posted by イシワタマリMari Ishiwata | 13:09 | Comment [3] | TrackBack [0] | 未分類

09 2007

涙は真珠

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この世に言葉がなければいいね





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Posted by イシワタマリMari Ishiwata | 23:04 | Comment [0] | TrackBack [0] | 未分類

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